想い出らしい想い出なんて、抱いて生きてきたつもりはなかったのに。
どうしてか一つだけ、決して忘れることのできない顔があった。
春からの新生活は、私にどんな感慨ももたらすことはなかった。
右を見ても左を見ても、目に映るのはどこかで目にした事のある顔の子たちばかり。
聞こえてくる会話も女学院の学び舎に流れていたそれと大して変わり映えもしておらず、お嬢さま学校特有の間延びした空気は、ここでもおなじ色と匂いを漂わせているようだった。
――私立聖應女子短期大学。
幼等部から短大までを一貫する聖應の庭の最終地点にして、箱入りの乙女たちが外の世界に羽ばたいて行くための最後の教えが施される学舎。
――なんて言えば聞こえはいいのかもしれないけれど、ほんとうに外に飛び出していこうという気概のある生徒は、聖應女学院時代に外部受験を受けて早々にここを去ってしまっている。
そんな彼女たちと比べてしまえば、なにか明確な目的があってこの短大に進んできた生徒というのはほんの一握りさえも存在しないのではないか。
気がつけばエスカレータにこんな所まで運ばれていた。
さしてやりたいことや叶えたいことがあるわけではない。
大学になんて、通う必然性はどこにもない。
ただもう少しだけ、この聖應の慣れ親しんだ空気に触れていたいと思っているだけ。
とろけるくらいに穏やかで、むせ返るほど甘ったるい日々に溶け込んでいたい。
私たちが、いや、私がここにいる理由なんて、それだけのこと。
……だったはずなのに、今では少し、その当時の気持ちが揺らいできているような気がする。
なんとも名状しがたいこの感情。
それでもあえて名前を付けるとするならば、それはおそらくこのどうしようもなく穏やかな日々に退屈してしまっているのだろうとそう思った。
退屈……か。
私は飽いてきてしまっているのだろうか。
この平和過ぎる日々に。
つまらないと、感じてしまっているのか。
でも……それはいったい、どうして?
「どうしたの、沙世ちゃん。なんだか難しそうな顔をしているよ?」
どうして、だろう。どうして私は、こんなにも物足りないと感じているんだろう。
だってほら、今のこの瞬間にだって隣には、私の大好きな人がいてくれるのに。
初音が、声をかけてくれているのに。
どうしてこんなに、満たされない気持ちになってしまうんだろう。
「初音……ううん、ちょっと考えごとしてただけよ」
「そうなの? ずいぶん悩んでいるように見えたんだけど」
「大したことじゃないの。なんで悩んでいるかもわからないようなこと、だから」
自分で言っておきながら、なんだかおかしな言葉だなと思ってくすりと笑った。
正体不明の感情にいいように悩まされて、振り回されて。まったく自分らしくないな。
理屈で割り切れないことには相手をしないって、そういうのがずっと貫いてきた私のスタンスじゃなかったっけ。
けれどもやはり、この気持ちだけはどうしても無視することができそうにない。
今はまだもやもやとしていて掴みようがないけれど、これは決して目を逸らし続けて解決するような感情ではないと、心のどこかでそう思う気持ちがあるのもまた確かなことだったのだ。
「ごめん、初音。私今日は早めに帰らせてもらうわ」
「沙世ちゃん……やっぱり調子悪いんじゃあ、」
「だからそういうのじゃないわよ。少し一人で、考える時間が欲しい……のかしら」
私の意味不明な不調のせいで初音に心配をかけるのは忍びない。
彼女の不安げな顔を見ていることに居た堪れなくなって、私はその場から逃げ出すようにして去り出してしまった。
まったく情けがないったらありゃしない。
こんなに弱気な女が昔は生徒会の一員で、あまつさえ一波乱を起こした張本人だなんて、自分のことなのに信じられそうもない。
「波乱、ね……」
もうすっかり初音から遠ざかったところで、ふと私の口から零れてきた言葉はそんなものだった。
波乱。騒動。あるいは喜劇。
自分は決して懐古主義な人間ではないとは思うけれど、しかしこの瞬間、私はつい半年前までの出来事を思い返して、“あの頃は楽しかった”と、確かにそう感じていた。
やかましくて、忙しくて、それでも充実していた生徒会での日々。
そんな生徒会室に飛び込んでくる、ダブル・エルダー絡みの珍事。
退屈なんて、するはずもなかった。
とても、とても楽しかった。
「今頃は……なにをやっているのかしらね、あの人は」
そうやって昔のことに想いを馳せると、必ず目蓋の裏に映し出される顔があった。
銀の髪の、冷たいひらめき。
屋上で私に押し迫った時のあのひとみの、底知れない深さ――
妃宮 千早
私が想起せずにいられないのは、卒業と同時に私たちの前から忽然と姿を消してしまった、完全無欠のエルダーの姿だった。
優雅で穏やかな、お嬢様然としたあの笑顔。
それと同時に、私というものの本質をはじめて見抜き、そして冷徹に突きつけてきたあのナイフのような態度も、脳裡にありありと蘇ってきてしまって。
どうして、そんな人を忘れることができようか。
あの人は……彼女は、私にとっての、
「なんだって、いうのよ……」
きっとこの悩みの根源なのだろう、その疑問に対する答えは未だ見つかってはいない。
唯一答えを教えてくれるかもしれない張本人は、春一番の風にのってあっという間にどこかへと消えてしまったから。
おなじ寮生だった初音も、彼女とダブル・エルダーを組んでいた七々原さんでさえ、その足取りは知らされていないという。
突然表れて、学内に数多くの伝説だけを残して去っていった彼女は、今にしてみればまるで幻のような存在だったと、そんなふうにさえ思えてきてしまう。
だからこそ私はこんなにか空虚な気持ちでいるのかもしれない。
それまで私の心をざわつかせ続けてきた存在が忽然となくなって、呆気にとられているのだろうか。
初音が私に与えてくれるものが変わりない日常の安寧だというのなら、妃宮千早が私にもたらしたものは心休まらない緊張の日々と、聖應の温室の中でぬくぬくと育ってきた私には少しばかり強すぎるぐらいの、いっとう苛烈な刺激だった。
一生記憶に焼きついて消えないぐらいに鮮烈で……いっそ、官能的でさえあって。
……もう一度、だけ。
もう一度だけでいい、あの日胸に抱いた恐怖心と――それと反を成すような得体の知れない高揚感を、今一度感じることが出来たのなら、
その時には胸の内でちりちりと燻り続けるこの灯にも、その消し方がわかるのだろうか。
……会いたい。
会って、私の中に置き残していったこの感情を、ちゃんと処分してもらいたい。
こんなに気持ちの悪いことって、ないじゃないか。
こんなに、胸の切なくなることなんて。
ああ、あの人は今――
どうしてか一つだけ、決して忘れることのできない顔があった。
春からの新生活は、私にどんな感慨ももたらすことはなかった。
右を見ても左を見ても、目に映るのはどこかで目にした事のある顔の子たちばかり。
聞こえてくる会話も女学院の学び舎に流れていたそれと大して変わり映えもしておらず、お嬢さま学校特有の間延びした空気は、ここでもおなじ色と匂いを漂わせているようだった。
――私立聖應女子短期大学。
幼等部から短大までを一貫する聖應の庭の最終地点にして、箱入りの乙女たちが外の世界に羽ばたいて行くための最後の教えが施される学舎。
――なんて言えば聞こえはいいのかもしれないけれど、ほんとうに外に飛び出していこうという気概のある生徒は、聖應女学院時代に外部受験を受けて早々にここを去ってしまっている。
そんな彼女たちと比べてしまえば、なにか明確な目的があってこの短大に進んできた生徒というのはほんの一握りさえも存在しないのではないか。
気がつけばエスカレータにこんな所まで運ばれていた。
さしてやりたいことや叶えたいことがあるわけではない。
大学になんて、通う必然性はどこにもない。
ただもう少しだけ、この聖應の慣れ親しんだ空気に触れていたいと思っているだけ。
とろけるくらいに穏やかで、むせ返るほど甘ったるい日々に溶け込んでいたい。
私たちが、いや、私がここにいる理由なんて、それだけのこと。
……だったはずなのに、今では少し、その当時の気持ちが揺らいできているような気がする。
なんとも名状しがたいこの感情。
それでもあえて名前を付けるとするならば、それはおそらくこのどうしようもなく穏やかな日々に退屈してしまっているのだろうとそう思った。
退屈……か。
私は飽いてきてしまっているのだろうか。
この平和過ぎる日々に。
つまらないと、感じてしまっているのか。
でも……それはいったい、どうして?
「どうしたの、沙世ちゃん。なんだか難しそうな顔をしているよ?」
どうして、だろう。どうして私は、こんなにも物足りないと感じているんだろう。
だってほら、今のこの瞬間にだって隣には、私の大好きな人がいてくれるのに。
初音が、声をかけてくれているのに。
どうしてこんなに、満たされない気持ちになってしまうんだろう。
「初音……ううん、ちょっと考えごとしてただけよ」
「そうなの? ずいぶん悩んでいるように見えたんだけど」
「大したことじゃないの。なんで悩んでいるかもわからないようなこと、だから」
自分で言っておきながら、なんだかおかしな言葉だなと思ってくすりと笑った。
正体不明の感情にいいように悩まされて、振り回されて。まったく自分らしくないな。
理屈で割り切れないことには相手をしないって、そういうのがずっと貫いてきた私のスタンスじゃなかったっけ。
けれどもやはり、この気持ちだけはどうしても無視することができそうにない。
今はまだもやもやとしていて掴みようがないけれど、これは決して目を逸らし続けて解決するような感情ではないと、心のどこかでそう思う気持ちがあるのもまた確かなことだったのだ。
「ごめん、初音。私今日は早めに帰らせてもらうわ」
「沙世ちゃん……やっぱり調子悪いんじゃあ、」
「だからそういうのじゃないわよ。少し一人で、考える時間が欲しい……のかしら」
私の意味不明な不調のせいで初音に心配をかけるのは忍びない。
彼女の不安げな顔を見ていることに居た堪れなくなって、私はその場から逃げ出すようにして去り出してしまった。
まったく情けがないったらありゃしない。
こんなに弱気な女が昔は生徒会の一員で、あまつさえ一波乱を起こした張本人だなんて、自分のことなのに信じられそうもない。
「波乱、ね……」
もうすっかり初音から遠ざかったところで、ふと私の口から零れてきた言葉はそんなものだった。
波乱。騒動。あるいは喜劇。
自分は決して懐古主義な人間ではないとは思うけれど、しかしこの瞬間、私はつい半年前までの出来事を思い返して、“あの頃は楽しかった”と、確かにそう感じていた。
やかましくて、忙しくて、それでも充実していた生徒会での日々。
そんな生徒会室に飛び込んでくる、ダブル・エルダー絡みの珍事。
退屈なんて、するはずもなかった。
とても、とても楽しかった。
「今頃は……なにをやっているのかしらね、あの人は」
そうやって昔のことに想いを馳せると、必ず目蓋の裏に映し出される顔があった。
銀の髪の、冷たいひらめき。
屋上で私に押し迫った時のあのひとみの、底知れない深さ――
妃宮 千早
私が想起せずにいられないのは、卒業と同時に私たちの前から忽然と姿を消してしまった、完全無欠のエルダーの姿だった。
優雅で穏やかな、お嬢様然としたあの笑顔。
それと同時に、私というものの本質をはじめて見抜き、そして冷徹に突きつけてきたあのナイフのような態度も、脳裡にありありと蘇ってきてしまって。
どうして、そんな人を忘れることができようか。
あの人は……彼女は、私にとっての、
「なんだって、いうのよ……」
きっとこの悩みの根源なのだろう、その疑問に対する答えは未だ見つかってはいない。
唯一答えを教えてくれるかもしれない張本人は、春一番の風にのってあっという間にどこかへと消えてしまったから。
おなじ寮生だった初音も、彼女とダブル・エルダーを組んでいた七々原さんでさえ、その足取りは知らされていないという。
突然表れて、学内に数多くの伝説だけを残して去っていった彼女は、今にしてみればまるで幻のような存在だったと、そんなふうにさえ思えてきてしまう。
だからこそ私はこんなにか空虚な気持ちでいるのかもしれない。
それまで私の心をざわつかせ続けてきた存在が忽然となくなって、呆気にとられているのだろうか。
初音が私に与えてくれるものが変わりない日常の安寧だというのなら、妃宮千早が私にもたらしたものは心休まらない緊張の日々と、聖應の温室の中でぬくぬくと育ってきた私には少しばかり強すぎるぐらいの、いっとう苛烈な刺激だった。
一生記憶に焼きついて消えないぐらいに鮮烈で……いっそ、官能的でさえあって。
……もう一度、だけ。
もう一度だけでいい、あの日胸に抱いた恐怖心と――それと反を成すような得体の知れない高揚感を、今一度感じることが出来たのなら、
その時には胸の内でちりちりと燻り続けるこの灯にも、その消し方がわかるのだろうか。
……会いたい。
会って、私の中に置き残していったこの感情を、ちゃんと処分してもらいたい。
こんなに気持ちの悪いことって、ないじゃないか。
こんなに、胸の切なくなることなんて。
ああ、あの人は今――
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