それは春休み明けの、最高学年としての1年間が始まる日のこと。
一度乗ってしまったエスカレータのように、何をするわけでもなく、何ができるわけでもなく、
漠然と過ぎてゆく日々を傍観する私には、それは特筆するような1日ではないはずだった。
そう。
彼女と出会う、その瞬間までは。
といっても。
教室のドアが開き、彼女が私の目の前に姿を現す。
その瞬間自体の記録は、私自身の中に何一つ残されていない。
クラス替えの騒々しい空気に正直辟易していた私には
話しかけたい相手も見当たらず、話しかけるような気力も持たず、
ただぼうっと佇んでいただけだったから。
そして、突如急に静かになった教室の空気にも、
(ようやく静かになったか‥)などと少しずれたことを考えていた。
「ご、ご機嫌よう‥、みんな、どうかしたの?」
静かな空間に響き渡る声は、聞き覚えがあるもので。
おや?と思い扉に目を向けたことで、私は彼女を見ることになった。
戸惑いを浮かべた紫色の瞳。
肩を流れ落ちる柔らかそうな銀の髪。
微笑みとともに零れる声の響き。
いや。
そんな表面上のことではなく。
私を捕えてしまったのは、彼女の瞳の奥に垣間見えたもの。
私が囚われてしまったのは。
この学院生には‥
いや、私が生まれてこの方、出会った人々からは感じ取ったことのない
なにかを秘め隠した彼女の眼差しであった。
正直、自分でも驚くほどに彼女に興味を持ってしまった私は、
まずは漏れ聞こえる会話から情報収集を始めることにした。
今年からの転校生。
薫子さんとおなじく寮から通う立場。
北欧の血を引くクォーター。
母君もこの学院の卒業生。etc...
彼女を囲む級友の問いかけに丁寧に答えるその声から、
私の脳内の真っ白なノートに、彼女の情報がどんどん書き加えられていく。
こんなことを知ってどうするのか、という声が、脳裏に警告として響き渡るが
やりたいことをしているだけ‥、という別の反論にかき消され。
まぁ、自分自身でも、自分らしくないことくらいは当然認識していているが。
微かな自嘲を漂わせつつも、その情報収集をなぜか止めるわけにもいかなかった。
始業式、ホームルーム、委員決め。
まぁ毎年繰り返していることだし、私にとってはどうでもいい。
そこに居さえすれば十分であり、あとは周囲の流れに身を任せるだけ。
その間、私はずっと1つの想いを抱えこんでいた。
そう。
これから私はどうすればいいのか、と。
話しかけたい。
彼女のことが知りたい。
彼女と同じ時間を過ごしたい。
その想いは薄れる気配は欠片もなく。
いや。
時が過ぎるにつれ、欲求は高まるばかりであった。
それを実現させるには‥と、たいして賢くもないこの頭がひねり出した解答といえば。
幸運なことに、1年の時以来の知人である薫子さんと彼女は親しくしているようで、
その線からアプローチするのが、もっとも自然かつ私にとっても負担の少ない案だと思えた。
だがしかし。
そのような思考の渦からようやく浮かび上がり
ゆっくりとクラスを見回した私は、迂闊にもターゲットをロストしていることに気付いた。
慌てた視線で机をチェックすると、二人の鞄はまだ机に置いてあり。
学院の案内でもしているのだろうかと、自分なりの推論に納得する。
入れ違いになる懸念はあったが、このまま帰りを待ち続けるのも芸がないと考え、
あまり遠出しない範囲で多少時間を潰すことにし、私はクラスを後にした。
何を聞こう。
なにを話そう。
取り留めもない考えを脳裏で揺らせながらしばらく時間を潰し、
そろそろ頃合いかと、クラスに戻ろうとしたとき。
ちょうど、何人かの級友が扉から出てきて、
私の姿を見ると頬を染め、廊下の隅に寄ってから会釈をしてくる。
こちらも軽く頭を下げ、通り過ぎたとき。
彼女らの声が小さく聞こえてきた。
「本当、妃宮さんもそうですけれど。
騎士の君、茉清様。素敵な方々と一緒のクラスに慣れてよかったですわね。」
「えぇ、本当に。。」
そこで妃宮さんの名前が挙がるということは、
もしかしたらクラスに戻っているのかもしれない。
そんなことを考えつつ、静かに教室に踏みいれたその瞬間。
「誰かに、嘘だっていってほしい‥。」
そんな声が私の耳朶に触れた。
「嘘よ」
「!?」
その声に、つい反射的な応えを返してしまいながらも
あぁ、前にも同じようなことがあったような‥、などと別のことを考えていた私は。
振り向き視線をあげた彼女と、今日はじめて視線を交わし合うことになった。
驚きに丸く見開いたその紫の瞳はやはりとても印象的で。
今日一日の印象とはほど遠い、どこか幼く隙だらけの表情に思わず笑みをこぼしてしまう。
「ふふっ‥。
懐かしい。
ずっと以前に、こんなやりとりをした覚えがある。」
脳内でいろいろシミュレートしていた会話のとっかかり。
それらがすべてご破算になってしまったため、
時間稼ぎというわけではないが、さきほどの思いつきをそのまま吐露してみる。
「えっ‥?」
「‥‥やっぱり別世界に見えるんだろうね。この学院の中は。」
「‥えぇ、それは間違いのないところです。」
2年前の経験から。
彼女の最初の発言を、私は正しく受け止めることができていたらしい。
あぁ、薫子さん。2年前のあなたに深い感謝を。
「私は真行寺茉清。よろしく。」
「あ、私は‥。」
「妃宮千早さんだね。大変な人気だったからさすがに覚えた。」
そういうと彼女は困ったような笑顔を見せる。
その笑みに見惚れてしまいそうになりつつも、
内心と裏腹にポーカーフェイスを貫き通せる自分の性格が今日ばかりはなんとも心強い。
「はい、よろしくお願いいたします。」
そう言葉を返してくれる彼女にそっと右手を差し出すと。
軽やかな笑みを浮かべ、優しく握り返してくれた。
その手は少し冷たくて。それは彼女の雰囲気にとても馴染む気がした。
その後は。
少し昔話を口にしたタイミングで薫子さんが登場し。
それからも少し会話を交わすことができた。
そろそろ帰ろうという話になったため。
「妃宮さん。
今日は話せて楽しかった。これからもよろしく。」
「えぇ‥こちらこそよろしくお願いします。」
「へぇー。茉清さんが珍しい‥。」
彼女の前で変なことをいうのはやめてほしい。
「そうなのですか?」
「いやー、そうでもないかな? んー。どうだろう?
なにせ茉清さんは入学早々にあたしと友達になるような、なんとも独特な人だから。」
「それはなんとも失礼ね。
私にとっても、あなた自身にとっても。」
「いやまぁ、ほら。あたしだし。」
そういって笑う薫子さんを呆れたように見ていると、ちょうど彼女と視線が合い。
そして同じタイミングでくすりと微笑むことができた。少し嬉しい。
よし。先ほどの発言はいまのでチャラにしてあげよう。
昇降口。
並木道。
取り留めもない会話をやりとりしながら
夕焼けの暖かな橙色の中を肩を並べて歩き。
寮への道へと分かれるあたりで、2人に別れを告げる。
「じゃあ、私はこれで。」
「うん。茉清さん、また明日ねー。」
「茉清さん。今日はいろいろありがとうございました。」
「こちらこそ。いろいろ話ができてよかった。 それじゃ。」
気軽に手を振る薫子さんと、微笑み、軽く会釈をする彼女。
きっと彼女はしばらくの間、見送ってくれるのだろう。
と勝手に思い込むことにして、私は振り返りもせずに校門へ歩いていった。
明日からの学院生活は、今までにないほど楽しくなるであろうという確信を心に秘めて。
一度乗ってしまったエスカレータのように、何をするわけでもなく、何ができるわけでもなく、
漠然と過ぎてゆく日々を傍観する私には、それは特筆するような1日ではないはずだった。
そう。
彼女と出会う、その瞬間までは。
といっても。
教室のドアが開き、彼女が私の目の前に姿を現す。
その瞬間自体の記録は、私自身の中に何一つ残されていない。
クラス替えの騒々しい空気に正直辟易していた私には
話しかけたい相手も見当たらず、話しかけるような気力も持たず、
ただぼうっと佇んでいただけだったから。
そして、突如急に静かになった教室の空気にも、
(ようやく静かになったか‥)などと少しずれたことを考えていた。
「ご、ご機嫌よう‥、みんな、どうかしたの?」
静かな空間に響き渡る声は、聞き覚えがあるもので。
おや?と思い扉に目を向けたことで、私は彼女を見ることになった。
戸惑いを浮かべた紫色の瞳。
肩を流れ落ちる柔らかそうな銀の髪。
微笑みとともに零れる声の響き。
いや。
そんな表面上のことではなく。
私を捕えてしまったのは、彼女の瞳の奥に垣間見えたもの。
私が囚われてしまったのは。
この学院生には‥
いや、私が生まれてこの方、出会った人々からは感じ取ったことのない
なにかを秘め隠した彼女の眼差しであった。
正直、自分でも驚くほどに彼女に興味を持ってしまった私は、
まずは漏れ聞こえる会話から情報収集を始めることにした。
今年からの転校生。
薫子さんとおなじく寮から通う立場。
北欧の血を引くクォーター。
母君もこの学院の卒業生。etc...
彼女を囲む級友の問いかけに丁寧に答えるその声から、
私の脳内の真っ白なノートに、彼女の情報がどんどん書き加えられていく。
こんなことを知ってどうするのか、という声が、脳裏に警告として響き渡るが
やりたいことをしているだけ‥、という別の反論にかき消され。
まぁ、自分自身でも、自分らしくないことくらいは当然認識していているが。
微かな自嘲を漂わせつつも、その情報収集をなぜか止めるわけにもいかなかった。
始業式、ホームルーム、委員決め。
まぁ毎年繰り返していることだし、私にとってはどうでもいい。
そこに居さえすれば十分であり、あとは周囲の流れに身を任せるだけ。
その間、私はずっと1つの想いを抱えこんでいた。
そう。
これから私はどうすればいいのか、と。
話しかけたい。
彼女のことが知りたい。
彼女と同じ時間を過ごしたい。
その想いは薄れる気配は欠片もなく。
いや。
時が過ぎるにつれ、欲求は高まるばかりであった。
それを実現させるには‥と、たいして賢くもないこの頭がひねり出した解答といえば。
幸運なことに、1年の時以来の知人である薫子さんと彼女は親しくしているようで、
その線からアプローチするのが、もっとも自然かつ私にとっても負担の少ない案だと思えた。
だがしかし。
そのような思考の渦からようやく浮かび上がり
ゆっくりとクラスを見回した私は、迂闊にもターゲットをロストしていることに気付いた。
慌てた視線で机をチェックすると、二人の鞄はまだ机に置いてあり。
学院の案内でもしているのだろうかと、自分なりの推論に納得する。
入れ違いになる懸念はあったが、このまま帰りを待ち続けるのも芸がないと考え、
あまり遠出しない範囲で多少時間を潰すことにし、私はクラスを後にした。
何を聞こう。
なにを話そう。
取り留めもない考えを脳裏で揺らせながらしばらく時間を潰し、
そろそろ頃合いかと、クラスに戻ろうとしたとき。
ちょうど、何人かの級友が扉から出てきて、
私の姿を見ると頬を染め、廊下の隅に寄ってから会釈をしてくる。
こちらも軽く頭を下げ、通り過ぎたとき。
彼女らの声が小さく聞こえてきた。
「本当、妃宮さんもそうですけれど。
騎士の君、茉清様。素敵な方々と一緒のクラスに慣れてよかったですわね。」
「えぇ、本当に。。」
そこで妃宮さんの名前が挙がるということは、
もしかしたらクラスに戻っているのかもしれない。
そんなことを考えつつ、静かに教室に踏みいれたその瞬間。
「誰かに、嘘だっていってほしい‥。」
そんな声が私の耳朶に触れた。
「嘘よ」
「!?」
その声に、つい反射的な応えを返してしまいながらも
あぁ、前にも同じようなことがあったような‥、などと別のことを考えていた私は。
振り向き視線をあげた彼女と、今日はじめて視線を交わし合うことになった。
驚きに丸く見開いたその紫の瞳はやはりとても印象的で。
今日一日の印象とはほど遠い、どこか幼く隙だらけの表情に思わず笑みをこぼしてしまう。
「ふふっ‥。
懐かしい。
ずっと以前に、こんなやりとりをした覚えがある。」
脳内でいろいろシミュレートしていた会話のとっかかり。
それらがすべてご破算になってしまったため、
時間稼ぎというわけではないが、さきほどの思いつきをそのまま吐露してみる。
「えっ‥?」
「‥‥やっぱり別世界に見えるんだろうね。この学院の中は。」
「‥えぇ、それは間違いのないところです。」
2年前の経験から。
彼女の最初の発言を、私は正しく受け止めることができていたらしい。
あぁ、薫子さん。2年前のあなたに深い感謝を。
「私は真行寺茉清。よろしく。」
「あ、私は‥。」
「妃宮千早さんだね。大変な人気だったからさすがに覚えた。」
そういうと彼女は困ったような笑顔を見せる。
その笑みに見惚れてしまいそうになりつつも、
内心と裏腹にポーカーフェイスを貫き通せる自分の性格が今日ばかりはなんとも心強い。
「はい、よろしくお願いいたします。」
そう言葉を返してくれる彼女にそっと右手を差し出すと。
軽やかな笑みを浮かべ、優しく握り返してくれた。
その手は少し冷たくて。それは彼女の雰囲気にとても馴染む気がした。
その後は。
少し昔話を口にしたタイミングで薫子さんが登場し。
それからも少し会話を交わすことができた。
そろそろ帰ろうという話になったため。
「妃宮さん。
今日は話せて楽しかった。これからもよろしく。」
「えぇ‥こちらこそよろしくお願いします。」
「へぇー。茉清さんが珍しい‥。」
彼女の前で変なことをいうのはやめてほしい。
「そうなのですか?」
「いやー、そうでもないかな? んー。どうだろう?
なにせ茉清さんは入学早々にあたしと友達になるような、なんとも独特な人だから。」
「それはなんとも失礼ね。
私にとっても、あなた自身にとっても。」
「いやまぁ、ほら。あたしだし。」
そういって笑う薫子さんを呆れたように見ていると、ちょうど彼女と視線が合い。
そして同じタイミングでくすりと微笑むことができた。少し嬉しい。
よし。先ほどの発言はいまのでチャラにしてあげよう。
昇降口。
並木道。
取り留めもない会話をやりとりしながら
夕焼けの暖かな橙色の中を肩を並べて歩き。
寮への道へと分かれるあたりで、2人に別れを告げる。
「じゃあ、私はこれで。」
「うん。茉清さん、また明日ねー。」
「茉清さん。今日はいろいろありがとうございました。」
「こちらこそ。いろいろ話ができてよかった。 それじゃ。」
気軽に手を振る薫子さんと、微笑み、軽く会釈をする彼女。
きっと彼女はしばらくの間、見送ってくれるのだろう。
と勝手に思い込むことにして、私は振り返りもせずに校門へ歩いていった。
明日からの学院生活は、今までにないほど楽しくなるであろうという確信を心に秘めて。
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